スタッフブログ:新規格 Ⅰ-V | 高松市のサイクルショップ【サイクリングステーション】でクロスバイク、ロードバイクを楽しもう!

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新規格 Ⅰ-V

2017年05月29日 

昔、東西ドイツが分裂していた頃の、選手は並外れたパワーの自転車選手でした。

当時、競輪選手であった、中野浩一選手は、永久に破られる事の無い記録を打ち立てました。

何故ならば、その頃まで、世界選手権は、プロ部門とアマ部門に分かれていたからです。

現在は、オリンピックに、プロ選手が参加できますが、当時はアマチュア選手しか参加出来ない大会でした。

実際に、日本にもオリンピックで、日本初のメダル獲得を目指して、競輪選手に成らなかった自転車選手がいます。

当時、最も強いスプリンターは、東側に存在しました。

当時、ヨーロッパで開催されていた、国際スクラッチ競技大会で、準決勝まで残れる選手は、いつも、東ドイツとソ連の選手でした。

西側の選手は論外でした。

200m~400mの短距離をトラックレーサーで走ると、西側の選手は一秒前後遅くなります。

それでも、一人だけ、時々準決勝まで、進出できる選手がいました。

その人こそ、その日本人選手です。確かに、タイムは、一秒弱遅いので、準決勝敗退でした。

それでも、中野浩一選手よりも、約一秒早く走れます。

徐々に、解ってきたと、思いますが、昔、自転車の短距離の世界は、西側よりも東ドイツの選手が圧倒的に強かった時代でした。

つまり、中野浩一選手が、世界選手権プロ部門10連勝できたのは、日本独特の競輪制度の御蔭だった訳です。

現在でも、短距離では、自転車選手はあまりスポンサーが付きません。

自転車選手は、長距離のプロロード選手にならないと、生活は出来ません。

世界選手権が、部門別に分けられなくなった現在、中野浩一選手が10連勝したクラスは存在しません。

つまり、この記録は永久に破られる事の無い名誉な記録でした。

同時に、モントリオールオリンピックで、日本人初の6位入賞に輝き、(当時、日本では、自転車競技初の快挙でした。)メダル獲得に期待され、(当時、中野浩一選手は、プロ選手なので出場資格がありません。)競輪選手を捨てて(当時、競輪選手に成る為の、年齢制限がありました。)モスクワオリンピックでの、メダル獲得を目指しました。

その後、日本がモスクワオリンピックをボイコットした為、失意の中、自転車競技の世界から離れました!

続く

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